10月21日現在、日本の政治がクローズアップされています。自民党の総裁は女性初で、奈良県出身。総裁戦候補者演説会の際、「高円(たかまど)の 秋野の上の 朝霧に 妻呼ぶ雄鹿 出で立つらむか」という和歌を詠われました。これは大伴家持の和歌。大伴家持の歌は万葉集に多く収められています。
中学受験組はこうした時事問題や世界の動きに気を配る習慣をつけてください。
さて今回は中学、高校生の方から質問があった、古文や漢文に見られる不思議な世界に注目します。
古典に登場する死者
古典で不思議な話は多くあるのですが、よく「理解出来ない!」との声をいただくのが、死者との会話ややり取り。例えば古文なら江戸時代に書かれた雨月物語が有名ですが、それ以外にも多くの作品に死者との交流が描かれています。
古文では例えば「今昔物語集」巻三十一第七話。
亡くなったかつての恋人とのひと時の後、命を落とす藤原師家の話です。
漢文では有名な楊貴妃の死後、玄宗皇帝との断ちがたい絆を描いた長恨歌の一節。
これらを予備知識無しに読むと、「あれ?○○って前の部分で亡くなってなかった?読み間違えた?まだ生きてるの?」と大混乱してしまいます。
解説をしていくと、「どうして亡くなった人が生きてる人と会話出来るの?おかしいよ!」との声が多数…。
そうですよね。現実ではあり得ないことです。ですが、皆さんが読む作品は論説文でもルポルタージュでもないのです。
今昔物語集は説話(言い伝え)を集めたもの。
長恨歌は唐の詩人 白居易が楊貴妃と玄宗皇帝の逸話を基に作った漢詩です。
つまりこれらはフィクションです。ですから「現実ではあり得ない」という指摘には意味がないのです。そう言い切ってしまうと、古典にはホラーしかないのかと誤解されてしまうそうですが、そんなことはないと皆さまおわかりでしょう。
古典文学における死生観を語るには私の知識が足りませんし、手に余ることですから避けます。が、死生観なんて物々しい言葉を使わなくても、生きる時代が違えば常識が変わることは現在進行形で起こっているのです。例えば、スマホ。その前身の携帯、PHSの前、ショルダー式の携帯する電話機があったことを、現在を生きる学生さん方の何人が知っているでしょうか。
前述したショルダーフォンが登場したのは1985年。ちょうど40年前です。たった40年でこれだけ常識が違うのです。今から1,000年前、1025年は平安時代で藤原道長の世。そのころの常識を我々が共感できるわけがありませんよね。
国語に不必要な共感
さて、話が少し飛びますが「読書と国語は違う」という説を一度はお聞きになったことがあるでしょう。読書は行間を味わったり様々な解釈をしたり、そして共感などの【心の動き】を伴うことです。対して国語は書かれていることをまとめたりする【分析や理解】を行うことです。これは現代文に限ったことではなく、古典でも同じことです。
小学校低学年の頃は特に、また学年が進んでも、国語の教科書の中には「~を味わってみよう」とか「想像してみよう」とかいった文言が並びます。教育というものはどうしても情操教育も含みますから、もちろんそうしたことを生徒さんに指導しているのですね。それならば、感じ方は人それぞれ、正解などないはずなのです。
それなのにテストや試験となると、自由記述でない限り正解は一つです。この相違点が、国語嫌いな方を生み出しているように思うのは私だけなのでしょうか?
話が反れましたが、つまり古典問題を解く際にも共感は不要、ということです。死者と話すのも変だし、古典の文章には分かりやすい接続詞などがないことが多いので、いったいどこからが架空のお話で、どこからが現実なのかと戸惑うこともあるでしょう。理解や共感ができないのは決して国語嫌いや苦手のせいではなくて、「古典の常識はもともと現代とはかけ離れているところがある」という前提条件があるからだけです。
ですから文法と古文単語の知識を使って、文章を淡々と訳していく作業が古典には必要です。塾生さんからは「作品の内容を知っていたほうが、テストには有利ですか?」と質問されたことがあります。それは確かにそうなのですが、定期テスト以外では何の作品が出題されるかもわからないのですから、有名な作品のあらすじと代表的な何節、成立時期くらいを把握しておけば十分だと思います。日本史の知識にも役立ちますから、一石二鳥ですね。
古典は実は得点しやすい科目です。できれば一人でも古典嫌いな方が減ってほしくて、つらつらと書いてみました。古典の無料授業もご用意しておりますので、よかったらぜひお越しください。